井島鍼灸院ブログ

2022.03.29更新

 師匠 黒野保三先生の著書  長生き健康「鍼」P25~P26の内容をご紹介させて頂きます。

「医」という字が成立した経緯を追ってみると、西洋医学が失ったものが何なのかという ことが見えてきます。
まず初めは「巫」という字です。これは「みこ」と読みますが、人が人に工を与えると いうことで医師を意味しています。また、昔の医師は単に医療者というだけではなく、天地人の営みに精通した宗教者であり為政者でもありました。
 少し後の時代になって「巫」が変化したものが「毉」です。盾のような形で「矢」が囲 まれ、その右に人を意味する「殳」、その下に「巫」があるという構造になっています。 これは、戦いで傷ついた人々を治療したところから作られた字なのでしょう。 次に「醫」ですが、これは「巫」が「酉」に置き換わっており、「酒」で傷口を洗ったということを意味しています。消毒法の登場です。さらに、「殿」になると「矢」の部分 がクローズアップされており、体にメスを入れるような治療法が連想されます。 そして、現在は「医」という字になり、人を意味する「殳」は消えてしまいました。現代の西洋医学は数値を見て、人(患者)を見ないと述べましたが、まさしくその通りの字 になっているとは何とも象徴的です。
緘灸医学は、西洋医学が置き忘れてきた「人」を何よりも大切にし、医療の原点を忠実 に守りつづけています。検査機器がない代わりに、鍼灸師の五感で患者をくまなく見ていくのです。もちろん、正確な診察のために膨大な訓練が必要であることは言うまでもあり ません。

 患者の患という字は、心に串がささっている状態に思えます。鍼灸医師は人を診る者としてその串を抜く努力をしなければなりません。そのためには、緘灸医師個々人のたゆまざる技術・技能の 錬磨が必要であり、さらに東洋の自然思想と東洋哲学の考え方に基づく人間性の豊かさが要求されます。 そのような人間性を養うには次の三つの要素が必要だと黒野先生から教えて頂きました。

1 自然を尊び、人と自然を一つのものとしてとらえ、命の崇高さを理解できる精神、ある種の宗教的感性を養うこと。
2人間学(情意学)を学び、人生経験に基づく人生哲学を持つと同時に、実証医学とし ての緘灸医学の研究や、心と体を総合的にとらえていく全人的診療を行なうことのできる 自然科学哲学者であること。
3患者の気持ちを受け入れ、病気・生活・家族・社会活動・家庭の経済に至るまで、患者に適切な指導ができる心理学者であること。

「人」を何よりも大切にし、医療の原点を忠実に守りつづけていきます。

 

投稿者: 井島鍼灸院

2022.03.16更新

明治国際医療大学名誉教授 北出利勝先生にご執筆頂いた黒野保三先生の追悼文が、全日本鍼灸学会雑誌 第72巻1号に掲載されました。

追悼文をご紹介させて頂きます。

 黒野保三先生を偲ぶ 

                             明治国際医療大学

                             名誉教授 北出 利勝

 令和3年(2021年)9月27日に天寿を全うされ91歳で永眠された。心からご冥福をお祈り申し上げます。

 黒野先生は、昭和35年、新潟大学から名古屋大学に生理学教授として赴任してきた高木健太郎先生の教室を訪ね、鍼灸の生理学を勉強したいと高木門下生の一人として鍼の生理学的研究を始めることになる。

 高木先生との師弟の絆で、鍼灸医学向上へのあくなき執念により、昭和48年、名古屋大学豊田講堂で開催された第20回日本鍼灸学会学術総会に中国医師団6名を招聘し、6都市で鍼麻酔の特別講演及びシンポジウムを開催した。これは日中国交回復直後での中国医師団を招聘した大事業であり、これにより日本中に鍼灸医学のブームが巻き起こったと言っても過言ではない。

 昭和54年、東西両医学の協調を目指し東洋医学研究財団の設立、昭和55年、社団法人全日本鍼灸学会の設立(昭和50年に日本鍼灸学会が日本鍼灸医学会と発展的改称されてから法人化に向けて尽力し、30数回にわたり文部省に出向き、遂に日本鍼灸治療学会と日本鍼灸医学会をひとつにまとめ法人化を成し遂げた)等、鍼灸医学の発展に多大な貢献をされた。また、全国各都道府県も地方会創設のために、高木先生とともに全国行脚され、数百名であった会員が一躍、千数百名と増え、学術研究の内容の精度も高くなり、国内はもとより、国際的にも有識者に認められるようになり、鍼灸師の資質の向上に繋がった。

 また、昭和42年には3階建ての東洋医学研究所®(名古屋市千種区春岡)を開設し、後輩の育成を始められた。東洋医学研究所®の設立は当時としては驚くべきことであり、このことからも黒野先生の情熱を感じられる。そして、鍼灸師でも名古屋市立大学医学部の研究員になれる門戸を開き、自らも研究員となって鍼灸医学の有効性を基礎的に研究し多数の論文を残された。

 私は思う、大学教育では学生が卒業すれば、その後は本人の努力で進まなければならない。黒野先生が言われる「修行」とは、鍼灸学とともに躾および開業する道を導かれたものであり、卒後教育の最たるものと思う。黒野先生の60年以上の臨床歴の中において、多くの開業者を育てられ、その開業された先生方は、今も鍼灸界で活躍されている。

 私にとっても、黒野先生は人生の師であり、これまで多くのことを教えていただいた。黒野先生は、「鍼灸医学の道に足を踏み入れて以来、今日に至るまでの道は決して平坦ではなく、試行錯誤の連続、成功や失敗の繰り返しであったこと、それは、鍼灸医学の発展と鍼灸診療を行う仲間とともに資質の向上を計ろうとするロマンの道程であり、それに注ぐ情熱の道程でもあった」と時間をいとわずにお話いただいたことは今でも忘れることができない。師との出会いにより、物の考え方、取り組み方、行い方、すべてが変わり、そこに信念と情熱が加わることにより、無から有を生じる摩訶不思議な現象が起きるのだと痛感し、また、学・術・道を踏まえて、鍼灸医師としての矜持を持つべし、とも常々おっしゃられておられた。

 また、時事問題に詳しく、常に社会情勢を踏まえ行動される姿、書画骨董を見て自分の感性を養う姿、ゴルフや囲碁(六段)をプロから学んでその道を究めようとする姿、これらは全て鍼灸道に通じる道として真実を探求する姿勢は、終始一貫していた。

 小生も鍼灸の教育者として大学で教鞭を執る身であったが、黒野先生という師に巡り会えたことは誠に幸運であったと感謝の一念で一杯である。

 鍼灸医学、鍼灸診療を学ぶ者に言いたい、「良き師について学んでほしい」と。

 黒野先生の鍼灸医学に対する魂は、永遠に受け継がれることを念じて止まない。

 受賞

  ・代田賞奨励賞2回(1984年・1993年)

  ・(社)全日本鍼灸学会会長賞2回(1991年・2001年)

  ・第1回高木賞(1997年)

  ・大村秀章愛知県知事より 「愛知県知事表彰」(生体制御学功労者表彰)(2017年)

               (協力:皆川宗德・河瀬美之・橋本高史:2021.12.15記)

    

 今回ご尽力頂いた北出利勝先生と、全日本鍼灸学会の先生方に心より感謝申し上げます。

 私は弟子の一人として、黒野先生がすべての幸せのために鍼灸医学にかけた熱い思いを継承し、責任ある行動をとることを約束します。

 

 

 

投稿者: 井島鍼灸院

2022.03.14更新

 師匠 黒野保三先生の著書  長生き健康「鍼」P16~P17の内容をご紹介させて頂きます。

「未だ病まざる病」とは病気以前の不調であり、その多くは病院での検査では異常なしとして判断されてしまいます。しかし、予防医療の観点でいえば、その段階で治すことこそ が健康と長寿のために最も大切なのです。
病気になってから治すのではなく、病気にならないようにすることがずっと良いということは誰が考えても分かります。だからこそ、鐡灸医学では、「未病治」を実現する医師は「上医」であると賞賛しているのです。

残念なことに、現行の健康保険制度のあり方は、医師をして「下医」の仕事に向かわせる結果となっているのが現状です。そのため、「上医」による「未病治」を求める人は、鍼灸院など西洋医学の病院以外の医療機関で受診するしか方法がありません。

上医 中医 下医については、黒野先生が引用されていた「上医はいまだ病まざるものの病を治し、中医は病まんとするものの病を治し、下医はすでに病みたる病を治す。」が代表です。その他にも、「上医の勤勉な医者は、毒さえも薬となして人を助ける。中医の凡庸な医者は、薬を薬として使って人を助ける。下医の怠惰な医者は、薬を毒となして却って病を重篤にする。」や、「上医は国を治し、中医は人を治し、下医は病を治す。」などがあります。

黒野先生のような上医を目指したいと思います。

投稿者: 井島鍼灸院

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